森部好樹は日本興業銀行マン。83年にニューヨーク転勤。
83年ニューヨークで森部好樹は仕事多忙でノイローゼ。
12月ニューヨークマラソンを偶然見る。
70歳以上の老夫婦・障害者もにこにこ参加に感動。
思わず翌年のニューヨークマラソンに参加申込。
ジョギングの楽しさ、マラソンの面白さを知る。

  • 1章(89年〜90年)
    88年ニューヨークから帰国。東京支店融資課長。時はバブルの絶頂
    新設の新規開拓課長で接待予算不足。他行はゴルフ・料亭接待
    差別化のため新規先社長をジョギング接待に誘う(ジョギングは皇居でウィークデー)
    何故なら社長は接待漬けでメタボ多し
    いい評判のため接待継続。効率化のため社長をグループ化
    取引先社長がヂュアスロン主催。取引深耕のため出場
    ママチャリで参加。雑誌ランナーズに写真掲載。偶然ランナーズ購入し発見
    ランナーズ社で写真を貰う。その際 下条編集長と知り合う。即意気投合。
    理論武装・定着化のためスター必要。社長ジョギングの会を下条編集長を囲む会.別名迷走会と名づける
    当時のメンバー 杉孝(杉山)、佐藤金属(山本、阿部)、トッキ(大豆生田)等
    最初 明走会は社長(及び代理)の会だったのです。
  • 2章(90年〜94年)
    夜のジョギングから当然にレース参加に発展。
    会員の皆様から友人も明走会に参加希望あり。
    迷走会も開かれた組織で異業種交流会に変更。
    91年の三浦国際マラソンで大豆生田さんが 大氣社芝山さんを紹介(これが大変な逸材に!)
    掛川・上尾・三浦中心に レース参加。又例会は不定期に2月〜3月に1回程度
    第1回の合宿を千葉の土気で実施(93年約20人参加)
    当時のメンバー 芝山(大氣社) 貞刈(飯野海運) 上野(上野海運) 斎藤(TAC)等
  • 3章(94年〜97年)
    94年3月に読売新聞日曜版に全12段で私と明走会が取り上げられたのを期に明走会に統一
    4月森部好樹香港に転勤。明走会も危機に。
    危機的状況を支えてくれたのは下条編集長と前出の芝山さん
    私が香港から帰国の度 明走会実施 何とか明走会存続
  • 4章(97年〜00年)
    97年12月香港より帰国
    明走会を月1回の定例会に。軌道にのる。
    日経BP等への掲載もあり会員急拡大(例会に100人以上参加も)
    例会会場も半蔵門の「どど」から神田の「藩」麹町の「さくら水産」へ発展。
    合宿も山中湖周辺で毎年実施。とうとう鉄道会館の好意で社員寮を借り受け「明走会館」と命名
    大島さん 津田さん等の重鎮も会員に キーパースンのツッチィーも本格参加
    00年に黄色の明走会ユニフォーム作成(デザイナーは森部幸子)
  • 5章(00年〜)
    マンネリ防止。一層の飛躍をこめ2000年問題の向こうをはり総勢45人でサロマ湖100キロマラソンに挑戦
    サロマ湖100キロマラソンの文集作成(00年)
    サロマ湖100キロマラソン参加を契機に明走会もウルトラに傾斜。この頃ウルトラの女王加村さんも明走会に参加
    01年より大島さん津田さん中心の夢舞いマラソンに明走会も大きく協力
    04年ころ漸く明走会カップルも誕生(オムロン鈴木、旭化成関口さんが殊勲)
    04年より合宿を千葉の富津に。
    会員の転勤を契機に 関西明走会、九州明走会、仙台明走会が発足
    分科会も「月見草」、「トライアスロン」「湘南支部」と様々
  • 現在(08年3月)
    以上思いつくまま歴史を辿って参りました。
    現在は 社長から平社員、メーカー・金融機関・公務員・芸能人 70歳以上から20台と様々
    明走会ももう19年。会員数は「800人」。凄い人数。これまで参加した人総てが明走会員です。
    記録も フル2時間台の国際マラソン、ウルトラの女王、サロマンブルー 5キロランナーと様々です
    でも明走会の本質は明走会のご案内に有りましたようにランニング及び健康を愛する人たちの異業種交流会です。
    規約なし 年会費」なし 平和と民主主義を愛する人たちの 出入り自由の会です。
     健康で「好い加減」な人を目指して皆で仲良くやりましょう。